日々の成長という言葉について
成長という日本語には、かなり偏ったニュアンスがある。
nがミルクを飲むときと飲まないときの違いが分からない。そのせいかどうか、体重もまだまだ成長曲線に下回っている。母乳信仰はないのだが、ミルクを出来るだけ飲ませないで育てたい親の意向はわからなくもない。じっさい、ミルクを飲んでいる赤ん坊は太り方が違うようだ。母乳よりも脂肪分が多いのか、ぷっくりしているという。
nは、ぼくの抱っこでもある程度までなら許してくれるようになった。あきらかに不満そうなときもあるが、そういうときはkに任せるのだ。
こうして自分の知らなかったことを書いていると、不思議な気分になる。こうではなかった自分は決して知ることはなかったであろう赤ん坊のこと、子育てのこと、そこから得るものと、感じること、それらはこれまで多くの人があたりまえのように感じてやってきたことで、それを自分も繰り返している。
きっと、nもこうしたことをする可能性がある。彼女はそれをどのように感じるのかわからないけれど、きっとkと似たものになるはずだ。ここには何も不思議なものはないのに、それが不思議な気分をあたえるのは、nの日々の成長をみるにつけてそれを確信しているからだろう。