ずっと、みんな、こうやってきたのだ

日曜日の朝、なにもする気は起きない。なんにも。すでに早朝から、nがせわしなく動きだしている。寝るあいだはおよそkが見ているのものの、朝はだいたいnが一人起きていて、平日は二人の目覚ましにもなっている。なにもする気はおきないが、さっきから鳴き声に変わってきているnを、kを飛び越えて自分の方へ寄せる。

いぜん、母乳恐るべし、母乳最強伝説について書いた気もするが、その次は抱っこだ。ミルクでもオムツでも睡眠欲でもなければ、まあ抱っこすれば落ち着く。

nはただいま発声練習中だ。おおよそ生後数ヶ月でみなやるらしい。朝から、喉につっかえたような声、唸るような声、大声を出してくるので、寝れたものではない。とりあえず抱っこして黙らせようとすることになる。

4ヶ月にしてまだ首が据わってないが、様子を見よう。寝返りも、ひと月ほど前にできそうだったのに、そこからシンポはないようだ。まあ心配はしていない。

今日は一日、ほんとうになにもせずに寝て起きてごろごろしていた。それでも、つねにどちらかがnをみている。たいていは、家事をしていない方が布団の上でnをみる。あやしてやることもあるが、一緒に寝ているだけのときもある。

つねにnを頭の半分くらいで意識しているので、完全に休むということはない。一緒に布団に入って、ただぼんやりと、うつらうつらしながら寝起きする。泣きそうになるとあやしたり、指を加えさせておもちゃにさせたり、もう何度お互いに顔を合わせてにっこり笑ったろうか。音楽を聴かせ、歌を歌い、本を読み聞かせ、抱っこする。

たいしたことはない。たいしたことはないけれど、こうしていると、ずっと、みんな、こうやって子どもの世話をして、つまり子を作り養い彼は成長してまた子を作り養ってきたのだと、ずっと、数千数万世代にわたってやってきたのだということを感じる。暖かい布団のなかでただぼんやりとそう感じるだけだけれども、その壮大な流れに準じて自分も一つのことをしているただそれだけなのに、そしてこうした大きなもののなかで自分がすることの小ささを実感し、あらためて自分のすべきことを考え直してみるのだ。