今後のことなんだけど

中の人が出てきたら、なんて呼べば良いんだろう。決めていないので、名前はまだない。いまは、将来、読まれる可能性のあることをこうして残しておいても、いいんじゃないかという気持ちだ。

2018年7月6日、20時10分に2942gで外に出てきた君は、まだ目も見えないし、自分が既に、母胎でニート生活を享受していないことにも気がついていないらしい。そう、本に書いてあった。

君を初めて見たのは、だれなんだろう。産婦人科医か、母親か、しかしぼくは肉眼で君を見て、君の姿に圧倒された。白い皮膚が全体を覆い、スケルトンみたいにその下にある中身が見えているようだった。だからその分は見栄えはおくとして、あとで綺麗にしてもらうと、かわいいもんだった。はじめて君の発した声は理想的な発声練習のようで、きれいなものだった。

病院側には午後8時までにどうなるか決まるといわれ、朝から一日中、君が来るのを待っていたわけだが、彼女に似て、結局は予定よりも少し遅刻してきたわけだ。眉毛や髪質、頬や顎や鼻などの顔、爪も含めて全体としてkに似ている。

ふと、君に見入っている自分に気がついた。そんな自分に驚いて、これまで他の赤ん坊にそこまでした覚えはなかったので、なぜなのか疑問に思った。やはり自分の子供は可愛いのだろうか。

自分の子供を愛することは自己愛に似ているのだと勝手に思っていた。出産に立ち会った人々は口々に感動の言葉を並べる。ぼくにとって、言語化のとても難しい経験だった。出てくるさまは、これまでどこかの映像で同様の場面を見たことがある筈なのに、信じられないような景色だった。ぼくはもう、ぼうっと突っ立って見ているだけだった。

はじめに最大の見せ場をもってきて、驚かせると、観客を置き去りに、あまりにも当然のような光景に変わる。出てきた君は看護師に体をチェックされていて、看護師などがたんたんと事後作業に追われている。そこで、なぜかこみ上げてくるものがあって、言葉に詰まる。涙も出そうになった。僕の心の第一声は「これでまた新しい人員がこの社会に加わった」ということだった。これもどこかで聞いたような言葉だ。

赤ん坊の誕生はたぶん、親にとって、自分の経験と、自分の主体と、赤ん坊の区別が難しいのだ。誰かの中から誰かが出てくるなんていうSFのような出来事は、そんな簡単に処理できるものではないということだろうか。よくわからない。

ちなみに、産んで早々に、ぼくが恍惚とした気分でいるのとは打って変わって、kは「ご飯食べれますかね」と看護師に聞いている。まる一日食べていないからお腹はすいているだろうが、それでも余裕綽々である。こういうお互いの感情のミスマッチは、日常茶飯事だが、むしろ今後も大事にしたい。

君が読んでくれているのだとしたら、これは君の年齢によって様々な感想になるだろう。なんにしても、こんなふうにして、kとtは、これからママとパパになっていくのだよ。